実業家と起業家の違いはどこにある?“経営”の本質を読み解く

1986年、上海郊外のとある町工場。

私は通訳を連れて初めての中国出張に臨んでいた。

その日出会った工場経営者の言葉が、私の30年以上のビジネス人生を貫く軸となった。

「笠原さん、私は起業家ではなく実業家だ。違いがわかるかね?」

当時の私は、この質問の深さを理解できなかった。

今、半世紀近い経験を経て、ようやくその意味を語れる立場になったように思う。

「実業家」と「起業家」——この二つの言葉は、ビジネスの世界で時に混同され、時に対立概念として語られる。

しかし、その本質的な違いを理解することは、経営という営みの真髄に触れることでもある。

本稿では、私が見てきた数多くの経営者像を通じて、この二つの言葉の背後にある「経営の本質」を読み解いていきたい。

「起業家」とは何者か?

起業家の定義と現代的イメージ

「起業家」という言葉が持つ現代的なイメージは、革新的なアイデアを持ち、それを事業化する人物という色彩が強い。

経済学者シュンペーターが唱えた「創造的破壊」を体現する存在として、多くのメディアは起業家を描き出す。

英語の”Entrepreneur”の語源はフランス語で「何かを引き受ける人」という意味だが、現代においては「新規事業を興す人」という定義が一般的になっている。

2010年代以降、日本でも「起業家」という言葉はより身近になり、若者のキャリア選択肢の一つとして定着してきた。

テクノロジーの発展と共に、少ない初期投資で事業を始められる環境が整ったことも、起業のハードルを下げた要因だろう。

スタートアップ文化との関係性

近年の起業家像は、シリコンバレー発のスタートアップ文化と密接に結びついている。

「失敗を恐れるな」「スピード重視」「破壊的イノベーション」

このようなフレーズは、スタートアップ文化の中核をなすマントラとなっている。

私が30代で駐在していた90年代の中国でさえ、すでにこうした「アメリカ型起業観」は広がりつつあった。

しかし、スタートアップの成功モデルとされる「短期間での急成長と大型Exit(売却・上場)」は、ごく一部のサクセスストーリーに過ぎない。

多くの起業家たちは、華々しい成功談の陰で、日々の資金繰りや人材確保に四苦八苦している現実がある。

リスクテイクとアイデア先行の特性

起業家の特性として最もよく語られるのが「リスクテイク」の姿勢だろう。

安定を捨て、未知の領域に飛び込む勇気——これは確かに起業家に必要な資質の一つである。

しかし、私が数多くの起業家と接してきた経験から言えるのは、純粋な「賭け」としてのリスクテイクは成功確率が低いということだ。

真に成功している起業家は、リスクを取る前に緻密な計算をしている。

彼らの多くは「アイデア先行」で事業を構想するが、そのアイデアは市場ニーズの丹念な観察から生まれている。

「起業家の勘」と呼ばれるものは、実は長年の市場観察から導き出された「データに基づく直感」なのだ。

「実業家」のリアリティ

実業家の定義と伝統的役割

「実業家」とは何か——現代においてこの言葉は少々古めかしく聞こえるかもしれない。

しかし、日本の経済発展を支えてきたのは、まさにこの「実業家」たちだった。

実業家とは、端的に言えば「実際の業(なりわい)を営む人」である。

松下幸之助、盛田昭夫、土光敏夫——彼らが体現していたのは、「モノづくり」や「サービス提供」という実体経済の最前線に立つ姿勢だった。

私が尊敬する大阪の老舗繊維商社の会長はよく言っていた。

「泰輔君、商売は”物語”じゃない。毎日の取引と信用の積み重ねだ」

この言葉には、実業家の本質が凝縮されている。

現場主義と継続性の哲学

実業家の特徴として挙げられるのが「現場主義」の徹底だ。

私自身、20年以上にわたり自社の輸出入業務で世界30カ国以上を飛び回ってきたが、その経験から言えるのは「現場を知らずして経営なし」ということだ。

数字やトレンドだけを追いかけるのではなく、泥臭く現場に足を運ぶ——これが実業家の基本姿勢である。

2005年、ベトナムの縫製工場を訪れた際のことだ。

工場長が見せてくれたのは、10年分の不良品記録だった。

「一つ一つの失敗を記録し、二度と同じミスを繰り返さない。これが私たちの競争力です」

この地道な継続性こそ、実業家の哲学の核心にあるものだ。

数字より”生き様”が語るもの

昨今のビジネスシーンでは「KPI」「ROI」といった指標が重視される。

確かに、数字で測れることの重要性は私も否定しない。

しかし、実業家の真価は単なる数字では測れない部分にある。

先日、創業40年の町工場を訪ねた際、二代目社長はこう語った。

「うちは派手な数字は出せませんが、40年間一度も赤字を出していません。それが私の誇りです」

この言葉には、短期的な成長より長期的な安定を重んじる実業家の”生き様”が表れている。

  • 地域との共生
  • 従業員との信頼関係
  • 取引先との長期的パートナーシップ

これらの無形資産こそが、実業家の真の財産なのだ。

起業家と実業家の交差点

「始める力」と「続ける力」の違い

起業家と実業家の本質的な違いを一言で表すなら、「始める力」と「続ける力」の違いだろう。

起業家に求められるのは:

  • 0から1を生み出す創造力
  • 未知の市場を切り開く先見性
  • 人々を巻き込むビジョン力

一方、実業家に求められるのは:

  • 1を10、100に育てる持続力
  • 困難な局面を乗り越える忍耐力
  • 組織を維持発展させる統率力

もちろん、これは二項対立的な区分ではない。

始める力と続ける力は、車の両輪のように補完関係にあることを忘れてはならない。

どこで線を引く?それとも融合しているのか

「起業家」から「実業家」へ——私がこれまで見てきた多くの経営者は、このような変遷を辿っている。

スタートアップの創業者が、事業の成長とともに実業家としての側面を強めていくのは自然な流れだ。

孫正義氏は典型的な起業家として出発したが、ソフトバンクグループを世界的企業に育て上げた過程では、実業家としての資質も発揮してきた。

逆に、伝統的な実業家の中にも、新規事業に挑戦する「起業家的瞬間」がある。

セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏は、コンビニエンスストア事業という新たな業態を確立する際、起業家としての革新性を見せた。

結局のところ、両者の線引きはあまり意味がないのかもしれない。

求められる「軸」の変化

違いを強いて挙げるなら、それは「時間軸」の長さだろう。

起業家が比較的短期間での成功を目指すのに対し、実業家は数十年、時には次世代にまで続く長期的な視点で事業を捉える。

私が尊敬する金属加工の町工場社長は、こう語った。

「次の設備投資は、私の代では回収できないかもしれない。でも、息子の代、孫の代のためにやるんだ」

この言葉に、実業家の本質が表れている。

両者のリーダーシップ比較

起業家と実業家では、リーダーシップのスタイルも異なる傾向がある。

1. ビジョン提示型 vs 現場主導型

  • 起業家:大きなビジョンを掲げ、人々を鼓舞するタイプが多い
  • 実業家:現場の声を吸い上げ、堅実な判断を積み重ねるタイプが多い

2. リスクテイク vs リスクマネジメント

  • 起業家:未知の領域に踏み込む冒険性を重視
  • 実業家:予測可能なリスクを最小化する安定性を重視

3. スピード vs 持続性

  • 起業家:「早く市場に出す」ことを優先
  • 実業家:「長く市場に残る」ことを優先

こうした違いは、それぞれの立場や事業フェーズによって生まれるものであり、優劣ではない。

状況に応じて両方のリーダーシップスタイルを使い分けられる経営者が、最も成功する可能性が高いのではないだろうか。

経営とは「続ける技術」である

笠原流:経営判断は”哲学”に近い

30年以上の経営経験から言えることは、経営の本質は「続ける技術」だということだ。

経営判断の多くは、単純な「正解・不正解」では割り切れない。

むしろそれは、自社の存在意義や価値観に基づく”哲学的判断”に近い。

2008年のリーマンショック時、私は大きな決断を迫られた。

主要取引先からの発注が激減し、会社存続の危機だった。

その時、私が選んだのは「従業員を一人も解雇しない」という道だった。

この判断に経済合理性はなかったかもしれない。

しかし「人を大切にする会社」という私たちの哲学を貫いたことで、従業員の結束は強まり、危機を乗り越えることができた。

経営とは、こうした判断の積み重ねである。

人材、資金、信用――継続に必要な3つの視点

事業を継続させるために必要な要素は多岐にわたるが、私は特に以下の3つを重視している。

1. 人材の育成と定着

  • 経営理念への共感を醸成する
  • 中長期的なキャリアパスを提示する
  • 権限委譲と適切なフィードバックを行う

2. 健全な資金循環

  • 運転資金の確保(最低6ヶ月分)
  • 適切な借入と返済計画
  • 利益の再投資と内部留保のバランス

3. 信用の蓄積

  • 取引先との約束を必ず守る姿勢
  • 地域社会への貢献
  • 透明性の高い経営情報開示

これらの要素は相互に関連している。

例えば、人材が定着すれば顧客との信頼関係も深まり、結果として資金繰りも安定する。

逆に、資金繰りが悪化すれば人材流出を招き、信用低下につながるという悪循環に陥る。

経営者の役割は、この3つの要素を常にバランスよく保つことにある。

実業における”失敗の価値”とその活かし方

ビジネスの世界では、成功事例ばかりが注目されるが、実は失敗から学ぶことの方が多い。

私自身、数多くの失敗を経験してきた。

2010年の中国市場進出の失敗は特に痛手だった。

しかし、その失敗から得た教訓が、後のASEAN展開成功の礎となった。

実業家にとって重要なのは、失敗を「終わり」ではなく「始まり」と捉える姿勢だ。

失敗を活かす3つのステップ

  1. 感情を脇に置き、客観的に失敗を分析する
  2. 具体的な改善策を導き出し、すぐに実行に移す
  3. 組織全体で失敗から学んだ教訓を共有する

私の会社では、四半期ごとに「失敗共有会」を開催している。

これは決して失敗者を責めるための場ではなく、全員で学びを得るための貴重な機会だ。

失敗を恐れない文化こそが、長期的な成功の土台となるのである。

現代における「実業家」像の再定義

DXやグローバル化がもたらす再編成

デジタルトランスフォーメーション(DX)とグローバル化は、実業家の在り方を大きく変えつつある。

かつての実業家像——工場や店舗を持ち、従業員を大勢抱える——は、もはや唯一の形ではなくなった。

現代の実業家は、デジタル技術を駆使し、国境を越えたネットワークを構築している。

私自身、60歳を前にしてオンライン会議システムやクラウドサービスを積極的に導入した。

「古い革袋に新しい酒を盛るな」という格言があるが、私は「古い革袋も進化できる」と信じている。

実業家の本質は変わらなくとも、その形態は時代と共に進化していくべきなのだ。

起業家から実業家への転身例

近年、注目すべき現象として「起業家から実業家への転身」が増えている。

メルカリの山田進太郎氏は、創業期の起業家としての役割を終え、よりサステナブルな事業運営者へと進化した。

LINEを創業した森川亮氏も、C Channelでは長期的な事業構築に重点を置くようになった。

伝統と革新を両立させた例として、「森智宏 プロフィール – TOMORUBA (トモルバ) – 事業を活性化するメディア」で紹介されている株式会社和心の森智宏氏も注目に値する。

大学在学中に和柄アクセサリーブランドを立ち上げ、後に東証マザーズ(現グロース市場)に上場するまでに成長させた軌跡は、起業家精神と実業家の手腕を兼ね備えた好例だろう。

「日本のカルチャーを世界へ」という理念のもと、伝統工芸を現代に蘇らせる事業は、単なるスタートアップの枠を超えた「実業」の領域に到達している。

彼らの共通点は、「短期的な成長」から「持続可能な発展」へと軸足を移したことだ。

この変化は偶然ではなく、事業の成熟度に応じた必然的なものだろう。

経済学者のアルフレッド・チャンドラーが指摘したように、企業は成長するにつれて「起業家的管理」から「専門的管理」へと移行する傾向がある。

これからの「実業」はどう変わるか

未来の「実業」は、従来の枠組みを超えた形で発展していくだろう。

特に以下の3つの変化が顕著になると私は予測している。

1. 物理的資産からデータ資産へのシフト

従来の実業では、土地・建物・機械などの物理的資産が競争力の源泉だった。

しかし、これからは顧客データや知的財産などの無形資産がより重要になる。

私の会社でも、10年前は倉庫の広さを競争力と考えていたが、今は顧客データベースの質が最大の資産だ。

2. 所有から共有へのビジネスモデル変化

「シェアリングエコノミー」に代表されるように、資産を所有するのではなく、効率的に共有・活用するモデルが台頭している。

これは実業家にとって、固定資産への投資を減らし、より軽量なビジネスモデルを構築する機会でもある。

3. 持続可能性を核とした価値創造

環境問題や社会課題への取り組みは、もはや「善意の活動」ではなく、ビジネスの中核を成すものになりつつある。

これからの実業家は、経済的価値と社会的価値を同時に創出する「両利きの経営」が求められる。

これらの変化は、従来の実業家にとっては脅威に映るかもしれない。

しかし、変化を恐れず柔軟に適応できる実業家こそが、次の時代も生き残るだろう。

まとめ

「実業家」と「起業家」——この二つの言葉が指し示す経営者像は、重なる部分も多いが、その核心には違いがある。

起業家の本領は「無から有を生み出す」創造性にある。

一方、実業家の真髄は「有を守り、育て、次代に繋ぐ」継続性にある。

私が本稿で伝えたかった「経営の本質」とは、この「継続する力」にほかならない。

ビジネスの形態や手法は時代とともに変わっても、「信頼を積み重ね、価値を生み続ける」という実業の本質は変わらない。

最後に読者の皆さんへ。

あなたは「起業家」と「実業家」、どちらの資質を持っているだろうか?

あるいは、そのどちらでもない第三の道を模索しているのかもしれない。

大切なのは、自分の強みと志向を理解し、それに合った道を選ぶことだ。

私自身、若い頃は起業家的な情熱で突き進んだが、年を重ねるごとに実業家としての視点が深まっていった。

ビジネスの道は一つではない。

あなた自身の「経営哲学」を築き上げることが、長い目で見たとき、最も実りある選択になるだろう。

(了)

最終更新日 2025年7月28日 by koseyy

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